帝国領への道が険し過ぎた

 「支持率回復の秘策」って議会政治や国民人気を気にしなければならない政権にとって魔法の言葉ですよね。

 特に支持率低迷中した政権は、もうこれ起死回生の策としてやっちゃったりします。そもそも支持率って当該政権の人気だけでなく、世情も表していたり。政権の支持率は低いけど、社会は健全とか経済は上り調子とか中々無いと思います。

 そして同盟は大博打に手を出して見事にすってんてんとなるのですが、大元の案は軍部の非正規ルートから提示されたという曰くつきのモノ。もちろん形式として政府から軍への命令という形で正式化しますが、制服組のトップも反対する案がナンバー2と一部の将校の手で政府に持ち込まれたのは政治闘争どっぷりですね。

 シトレ本部長に対抗するためにレボロ艦隊司令長官が、ヤン中将に対抗するためにフォーク准将がとか、完全に個人都合ですし。なお国防委員長はしっかり反対の姿勢で、これで出兵しちゃう同盟はやはり末期症状だったのでしょう。

 お陰で会議も目標設定すらできずに終了、どうせ敵が待ち構えているからイゼルローン回廊の帝国領で戦いになるだろうという予想が外れてしまった後はグタグタしちゃう始末。

 

 一方で帝国は明確に目標設定されていた。焦土戦略とか普通しない方策が義眼の参謀から提示されてその思惑通りに進む。

これが来たるべき帝国内の政争や内戦に対してラインハルト配下の兵力を温存して、かつ帝国が物資を取り上げてラインハルトが施すという人気取りや、弱った同盟を叩き潰して勝利の実績で発言と権限を増すとともに将来の内戦で同盟の軍事介入を防ぐとか、一石何鳥の策略。

 なお帝国の反ラインハルト派は同盟とラインハルト陣営が消耗しあってくれればOKと、責任を押し付けて全権委任しちゃうミス。まあ、こんな完勝するとは普通予想しない。

 やっぱり戦略目標って大事だよね。

 でも一億から二億人ぐらい生贄にしようとするとか赤毛の腹心も不満に思うのも当然。義眼の参謀は130億の1割にも満たないとか言いそうで、たぶん会議でもヘイトを集めたはず。

 なお同盟が施しをしなかったら、義眼の参謀が同盟の非人道的な行いをじっくり記録するとか言って、赤毛の腹心と大喧嘩になりそう。

 まあ義眼の参謀のことだから同盟の「大義名分」とか調べてこの作戦立案したので、同盟が「偽善」で首が回らなくなるのも計算内で「100日以内」と報告したと。

 

 内のアレと外のアレと二重に問題な帝国領侵攻作戦。まあ失敗する運命にあったとしか思えない内容でした。

やっぱり無茶な第7次イゼルローン攻略。

 難攻不落の要塞って、基本正面で無く潜入からの破壊や味方を招き入れるとかが鉄板なので、歴史好きのヤンがちょっと真似してみたのがこの作戦。

 偶然の勝利。はい、そうです。駐留艦隊の出撃、偽装部隊の侵入、敵中枢への侵入、敵将の降伏等々、博打だらけの作戦でした。

 ヤンも「失敗したら本部長と自分が恥をかくだけ。」と言っているので、成功率はそれほど高くない。ハッキリ言って低い。

 でも、それまでの遺族製造作戦よりもコストメリット大、ローリスク、ハイリターンの作戦で、後年も同様の低コスト作戦で再奪還しているのでこの手の作戦の有効性は実証済み。じゃあ、みんなやれば良いかというと。

「駐留艦隊が出撃しなかったらどうする。」

「帰ります。」

「擬装部隊が見破られたらどうする。」

「帰ります。」

「敵中枢へ行けなかったら。」

「隠れて、待ってます。駄目なら帰ります。」

「敵将が降伏しなかったら。」

 以下略

 うん、絶対に許可されないよこれ。

 作戦案を提示したヤンも無茶だけど、許可した本部長も相当無茶。従った部下達の軍規の高さはむしろ称賛に値する。

 国防委員長が本部長はとち狂ったと思い、フェザーンの黒狐が成功するとは思わなかったのも当然。

 

 もしこれが失敗していたら次は破壊を目的とした作戦に代わり、拠点攻略用の大規模砲が開発され移送中の同盟守備艦隊と帝国軍の間で戦いが繰り広げられるという流れになるかも。

 もしくはラインハルトの帝国掌握からラグナロック発動、フェザーン回廊とイゼルローン回廊からの侵攻に同盟が総力を挙げて対応しての大規模衝突で、勝利の行方は如何に?かも。

 

 まあ無茶したおかげで、他人がもっと無茶して、結果無茶苦茶になったとなれば、ヤンが最後まで文句を言いながらも戦い続けたのは、本人の意図とは真逆の同盟滅亡の引き金となったと、密かに責任を感じていたのかもしれません。

アスターテ会戦は、先入観って難しいよねって話。

 同盟軍も帝国軍も各艦隊の司令官はベテランぞろいなので、多いほうが包囲しようとして、少ないほうがこりゃ撤退だろってなるごく自然な話。

 で、一方の若造がこれは絶対いけると思い、もう一方の若造はいやいやこれヤバくねと思って、それぞれ動いたというのが、この戦いの流れ。

 第2艦隊のヤンはラインハルトを以前より知るため他の選択肢を取る可能性を考慮して進言、第6艦隊のラップはどの時点からか不明だが、帝国軍が予想地点にいない時点で各個撃破に動いたと判断して進言するも、それぞれ受け入れられず。

 帝国のラインハルトも麾下の提督に作戦要綱を説明するも机上の空論として受け入れられず。

 結果は、権限が強いほうの若造が強引に進めて、帝国の勝利となる。

 

 でも帝国の勝利は別に思い付きや先入観が無いからではなく、そもそも同盟は最初から正面二個艦隊、後方遮断に一個艦隊の配置(ヤンの案で戦力配置が逆のパターン)ならこの大敗は無い。二倍の兵力なので包囲殲滅と欲を出したのが敗戦の最大要因で、過去の作戦を再現しようとした艦隊行動が、ラインハルトに読まれてしまった。

  なお正面に数の少ない第4艦隊だったのは関係なく、分散して距離がほぼ同じため、他の同盟艦隊が戦力が少なければ帝国艦隊はそちらに向かっただけ。第4艦隊との戦闘後に次に少ない第6艦隊に向かったのがその証拠。

 また戦場でも初戦はファーレンハイト艦隊、次はメルカッツ艦隊と先陣を任せる艦隊を入れ替えて戦闘能力の維持し、初戦と次戦ともに戦闘を早々に切り上げて次の戦闘に備える配慮など、帝国は三個艦隊との連戦を想定した行動を隙なくこなして勝つ要因を積み上げ、同盟は作戦立案時の問題点を戦場で修正できなかったため、二個艦隊が壊滅した。

 

  それにしてもこの会戦でラインハルトに対する先入観を無くしたメルカッツとファーレンハイトの間に後々もドラマがあって個人的には好きだったりします。

 

  あと、ラップは戦術的センスを見せるも戦死する。同期で話がわかり有能な彼が死んだことで、ヤンはこれ以降の戦いで自分の代りとなる者を結局見つけられずに、孤軍奮闘する。後々「キルヒアイスが生きていたら」と思われたくらい、ラップの死はヤンにとって痛手で「ジャンが生きていたらのんびり昼寝できたのに。」などと思っていたかもしれません。

アスターテ会戦の勝利

 原作第一巻でラインハルトがヤンを認識する(他のコンテンツではそれ以前から)アスターテ会戦は同盟が帝国の侵攻を防いだので戦略的勝利。但し当初の作戦は失敗、犠牲も多すぎて戦術的敗北という結果。

 もっとも損害が大きすぎて同盟は全面敗北の様相で、逆に撤退した帝国は大勝利で司令官は出世との流れ。

 この一見すると、でも実際は感が好きですね。逆なら同盟はアスターテ星系を占領されて式典どころではないですし、帝国はラインハルトの昇進はお預けでしょうし。

 なので第7次イゼルローン攻略は無かったので、実はアスターテ会戦がそれ以降の流れを作る要因になったと、そして主役達の顔見世としてもラインハルトとヤンの性格、置かれている状況、能力を纏めて表現されている場面でもあったと思います。

 ラインハルトは常に積極策。包囲が完成する前に各個撃破、それも相手が過去の作戦を引用していると見抜いての作戦行動で、洞察力に優れている。

 一方のヤンは事前に敵の行動を予測、それは分析力によるものでラインハルトが司令官と知り過去の戦歴から積極策を取ると判断した。

 

 あと見過ごされがちなのが、ヤンの戦術眼ですね。第2艦隊が帝国の中央突破を逆手にとって逆行から後背展開する作戦で、どのタイミングで前進するか極めて難しい判断をヤンは行っており、たぐいまれな戦場勘を持っています。

 後の戦いでもヤンはその力を発揮しており、常に準備して策を巡らすタイプのようでいて、前線指揮官としてもラインハルトと対等であると示していますね。もちろんヤンの作戦をいち早く見抜いたラインハルトも優秀であるとの記述もあります。

 

 銀英伝のエッセンスを盛り込み、作品のニュアンスを表現している点でも大事な戦いですね。

銀英伝の思いで。

 NHKで放送中のDie Neue Theseはヤンが美形寄りで、藤崎竜氏の漫画のヤンは少し万能感があるので、ラインハルトのハッキリした表現よりも、後世の歴史家が彼をどのような人物と捉えたか、のようなイメージで面白く感じたりもする。

 原作の小説に近いOVA版のヤンの微妙な顔立ちが、イメージとして強くあるので余計にそう思うのかもしれない。

 

 一方でラインハルトは性格も顔も、「元の記録が多いため、メディアによる差異は誤差である」と勝手に論評できるぐらい共通性が高く、これは個性が強すぎて他の解釈を挟む余地が無い点にあるのかもしれない。

 特にOVA版では作品を知らなくとも、映し出されたラインハルトの顔で「プライド高そう、負けず嫌い、気が強い。」と判ってしまう再現性だった。

 

 個人的にはアンネローゼの最高権力者の愛人という立場でありながら闇を感じさせずに、でも悲哀を感じるという絶妙感を表現いただければ満足かと。

 

 Die Neue Theseも藤崎版も脚本は異なる点はありますが、できれば最後までやっていただきたいですね。